扉を開けるとそこは密室であった。出口がないという意味ではない。人が密集しているという意味である。この会に参加するたびに手狭に感じていはいたものの、ここまで窮屈な印象を受けたことはないのではないだろうか。室内に立ち入った瞬間、空気の淀みを感じたほどであった。—訂正する。これは毎回そうであった。
今回、僕は朝から別の用事に追われており、開始時刻には間に合わなかった。この会に参加できたのは会も折り返しを迎えるころであったろうか。いつもの様子見タイムは終わりを告げていたようで、各所ではそれぞれが思い思いの催眠に興じていた。僕も遅れを取り戻そう、たくさん掛かろうと気を新たにした。
とはいえ、この会恒例の事象ではあるのだが、掛け手があまりにも少ない。知った顔の掛け手が数名いた程度であったし、彼らもあちらにこちらにと大忙しであった。今回はいつもに増して人数が多く、初めてお見掛けする人影もちらほらいた。途中参加ということもあり、その一部としか交流することができなかったけれど、内訳はほとんどが掛かり手のようであった。
部屋に入ってすぐ、近くにいた濃州殿、黄門殿と談笑していると、僕を見つけたのかたまたま通りかかったのか佐殿がお見えになり、何やら話してくれた。佐殿曰く、今日は塩殿がいつになくやる気であり、良いものをもらえるとのことであった。あの塩殿が躍起になっているとは珍しい。何か心境の変化でもあったのだろうか。と思案していると、都合の良いことに塩殿がこちらに向けて歩いてきた。掛かり気をむき出しにしていた僕は迷わず塩殿に声をかけるとやはり素直に応じてくれた。それもかなり前向きな態度であった。いつもの気だるげな塩殿の姿は影も形もなかった。尤も、新鮮味を感じられたのでそれはそれでよいと思った。
塩殿は懐からペンデュラムを取り出し、それを僕に持たせた。ああ、これから始まるのだなという期待の裏に、そういえばこれを落として割った人がいた気がするな、とおふらんすな顔が浮かんだ。閑話休題、塩殿は言葉巧みに誘導する。すると、振り子が左右に揺れだした。いつしかその揺らぎは遠めに見ても分かるほどのものとなり、僕は久々の感覚に気分上々であった。ほどなくして塩殿は振れる向きを変えるように指示する。すると振り子はその言葉に従うように縦に揺れ出した。縦向きはイメージしづらいし、振れているのが見えにくいんだよな、と少し思った。それを感じ取ったかは知らないし、十中八九偶然だと思うのだが、割とあっさりと、時間をおかずに塩殿は円を描くように揺らすよう言葉を紡いだ。くるくる回るおもり。何度か見た光景であったが、少し愉快な気持ちになった。少し間をおいて振り子が重くなる。腕に疲労感を覚える。それに比例して徐々に腕が下がって行くが、ペンデュラムを落とすまいと少し踏ん張った。すると塩殿、振り子の下に手を添えられたので、僕は安心して踏ん張るのをやめた。ペンデュラムを手放すと同時にふっと視界が暗転した。すかさず起こされると、眼前に指が添えられる。訳も分からずその指先を見つめる。ただ見つめていると、その指がだんだん近づいて来るような気がする。やがて眼を閉じると再び意識が蒸発する。これを数回やって、塩殿は僕を覚醒させた。いつもよりも深く踏み込まれた気がして、やや面食らった様子の僕に対し、佐殿が興奮気味に、すごかったでしょ、と語り掛けてくれた。それを目にしてか、塩殿が饒舌にその意欲の裏側を教えてくれた。塩殿は前回開催時に掛けられなかった人がいたことに負い目を感じたらしく、その巻き返しとばかりに躍起になっていたとのことだった。実に天晴な心意気である。この意欲が次回以降も続くことを願ってやまない。
催眠を行うにはそれなりのスペースが必要なので、人は絶えず動き回っていた。そのため少しずつではあるが談笑している面々にも変化があるし、厠に給水にと席を発つと、戻ったころには自分の座っていた席に別の人影があることも多い。そうして、移動を余儀なくされた僕は適当な椅子に腰かけると、正面には玉殿がいた。玉殿は自身のケータイを手に持って何やら読み上げているようであった。その声に注意を払ってみると、やけに見覚えのある文章であった。ちょっと、待ってほしい。それは僕がかつて書いた感想文である。やめるんだ。僕の必死の嘆願をあざけるように会心の笑みをこぼす玉殿。前回お会いした時も思ったが、ちらりと見える歯がきらめいて見えるような、そんな悪い笑みである。
そんなこんなで少し時間が過ぎた。僕は濃州殿のやる気を感じ取った。濃州殿は普段は人前で催眠を掛けることを避けていたようであったが、今日はやるぞという雰囲気であった。先の塩殿もそうであったがこの濃州殿にも、己が心に何か火をつける事柄があったのであろうか。僕には知る由もなかったが、躍起になっている言葉尻をとらえて聞いてみると、快く引き受けてくれた。驚いた。もしかすると今回一番の収穫かもしれない。空いていた席に腰かけた二人。濃州殿が僕にいくつか質問をする。掛けてもらいたい催眠を訊く。僕はトランスを所望した。こういう場でも掛かりやすいからである。すると濃州殿、さらに踏み込んでどう掛けてほしいか、体を倒すなら前か後ろか、どういう誘導が好みか、など細かく尋ねてきた。僕はここまで根掘り葉掘り訊かれたことがなかったので少し面食らったが、ゆっくり落としてほしいこと、上向きだと光が気になったり首が気になったりするので前に倒してほしいことを伝えた。濃州殿、リクエストに快く応じてくださり、ゆっくりと祝詞を述べはじめた。言葉に応じて視界が暗転すると、瞼の上に手が添えられる。視界がより深い黒に染まる。添えられた手が温かい。ぼうっとするように四肢から力が抜ける。その時、顔に触れるよ、とか、肩に触れるよ、とか、都度声をかけてくれるのがありがたかった。知らぬ仲ではないので、いきなり触れられたとて驚き跳ねるようなことはないのだが、次の行動を事前に示しておいてもらえることにより安心感が芽生え、泰然と催眠を受けられるなと思っていた。とても気持ちの良い時間であった。終わったとき、少し名残惜しかった。
時は少し遡り、濃州殿と奥の座席に腰かけ、作戦会議をしていたころ、背中を向けていた一つの影が突然こちらに振り向いた。ねぇエミーさん、私が誰だかわかるかい、と蠱惑的にこちらを見据える瞳があった。その方と僕はこれまで顔を合わせることこそなかったものの、以前から通交があったため、声の形で誰なのかはすぐにわかった。特徴的な声の主は湯葉殿という。甲高く元気な声でやあ、と声をかける湯葉殿。濃州殿曰くあざとい口調で、暗に遊ぼうよ、と追及してくる。間の悪いことに、濃州殿と僕は今まさに催眠をしようとしていたところであったから、色の良い返事ができなかったが、それを聞いた湯葉殿はすんなりと引き下がってくれたので、ばつの悪さは残らなかった。
濃州殿とのセッションが終わり、外気を吸おうと歩き出すと、僕の行く手を阻むように足が投げ出された。誰の仕業だ、と見やるとそこには湯葉殿の顔があった。瞳には相変わらず笑みが浮かんでいたが、その双眸の奥には少し意地悪してやろうという気が見えた。悪い気はしない。湯葉殿とは以後も少々話す機会があったものの、特筆するほどのイベントはなかった。この会のおかげで親交が深まったのは歴とした事実であるのだが、それはまた別のお話、ということで割愛させていただこう。
少し時が経って、佐殿がこちらに来られては、何やら話してくれた。曰く、序盤の塩殿とのセッションでおおむね満足したらしく、今は少し息を入れているとのことであった。息を入れるついでに「あれ」やってよ、と冗談交じりに話すと、最近やってないと言いつつも構えに入った。佐殿の「あれ」は何度かやるうちに成熟度が上がっているように感じた。視線の誘導、一瞬間を入れて、肩を揺らして落とす。やってもらうたびにさらに洗練されているなと感じる出来栄えであった。それを見ていた濃州殿、原殿も興味を示していたので、佐殿、続けて二人にもやって見せた。手慣れたように「あれ」を披露すると、一度がくっと首が落ちる。その後、笑いを堪えるかのように起き上がってくる。二人は口をそろえて、一瞬落ちるけれども掛け声が面白いので戻ってきちゃう、と話された。もはやこれは呪いである。
佐殿は今回、「あれ」のコツをつかんだようで、曰く揺らすときに肩をつかむのではなく両側から交互に押すイメージでやるとよいとのこと。僕がこの技を使う機会はきっと来ないが、一応覚えておこう、と心に書き留めた。
さらに時間は経過し、終了時刻の影がちらつくころ、竜殿と目が合った。久しぶりだしやってもらおうと声をかけると、竜殿が先に、大阪開催時には全員に掛けたつもりでいたけど、エミーくんに掛けてないって後から気づいたわ、と話してくれた。その時の僕は、大阪でしかお目に掛かれない人を狙い撃ちしていたので、それで問題はなかったのだが、気に掛けてくれているんだな、というのと、無意識かもしれないが後回しにしても平気と思われている気がして少しうれしくなった。
という話があって、改めて依頼をすると、快く引き受けてくれた。やはり良い人だ。竜殿はそれは慣れた手ぶり口ぶりで僕の意識を削いでゆく。閉眼し首を前に倒すと、竜殿の声が少し遠くなる。すぐ後に、もう一つ体が倒れる気配がした。以降は時折声が遠くなることが何度かあった。おそらく、もう一人隣で掛けているのだろう。少し気になるが、自分に集中することにして、催眠を味わった。
目覚めると隣には、同じく今しがた起き上がったばかりの笑殿がいた。竜殿によると、僕に掛ける際に横で見ていた笑殿が耳をふさいで逃げるそぶりを見せたのでまとめてかかってもらおうと巻き込んだとのことであった。そういうことは僕の目に映るようにやってほしいものだ。絶対面白い光景であったに違いない。逃した魚の味を想像しつつ、竜殿にお礼を申し上げた。
よくよく掛かってさらにアクセル全開な僕は、部屋の中央で休息をとっている人影に目を付けた。お、やるかいと腰を上げたのは空殿。いつもと変わらぬ笑みをたたえて、こちらに向かってくる空殿。空殿は何がしたいのかと僕に問いかける。僕はまずはトランスから、とまた答えた。今日はトランスしかしていない。それでよいのだ。
空殿は慣れた様子でこちらを落としにかかる。初めてではないので、こちらも特に緊張することなく掛かることができた。すっと深部に吸い込まれる感覚の後、空殿が呪文を唱えた。つーつーつー。呪文を解析する。塩殿の、顔が、ひょっとこに、なる。なるほど。ふぅむ。
目が覚める。空殿はいつにもましてにこにことしている。そして背を向けていた塩殿に声をかける。振り向いた塩殿の顔を注視すると、塩殿の顔に、それこそお面をかぶっているように、ひょっとこが張り付いていた。塩殿はどちらかというと道化の役は引き受けそうだなと想像できてしまい、面白さがこみあげてくる。もともと引きずるような笑いはしないので、感情の発露としては控えめだけれど確かに面白い。何が何だかわかっていないような塩殿の呆け顔も相まって非常に面白い情景が瞳に映し出されていた。
ほどなくして術が解かれる。塩殿は少し憮然とした表情であったが、続いて空殿を一瞥すると、納得したように頷いた。そして付近にいた笑殿と僕を交互に見やると、僕に向いてから顎をくいっと動かした。とうとうこの時が来た、と思った。塩殿は僕に催眠を掛けろと仰せなのだ。
えー、やってくれるんですか、と前のめりな笑殿に対し、まあやるしかないかと腹を括る。笑殿とは今日が初対面であったが、それを感じさせない雰囲気と笑顔を纏っていた。それにほだされるように、僕は言葉を捲し立てる。そのほとんどは無駄な話だが、会話をすることで緊張がほぐれればよいなという思いがあった。効果があったかどうかは知る由もないが。
多くはできないよ、と予め断ったうえで、言葉の向きを変える。身体の力を徐々に抜く。笑殿の身体が僕の言葉に従って空気が抜けるようにしぼんでゆく。以前も記した気がするが、この光景は冥利に尽きる。己が経験を顧みるほど長くやってはいないとはいえ、この光景を何度頭の中で繰り返しても飽きることはないのだろうな、とふと思った。頭の片隅がしんみりと感慨にふける一方で、口は止まらずに音を発し続ける。ここのところは通話催眠を掛けさせられることが多かったから、こういう時に言葉に詰まらなくなってきた。これも成長と言って良いのであろうか。打合せ通り、一度落として、それから起こすだけで終わりにした。
一仕事を終え、すがすがしい気分で座っていると、菜殿がこちらを見ている。菜殿がこちらを見ている!
菜殿は残り少ない時間でこちらに掛けろと要求してきた。もう五分も残っていないよ、と話しても、唯、やれ、とだけ。仕方がないので三分でやってやるか、というと、満足げにそれでいいよと口にされた。何が菜殿をはやらせているのかは分からなかったが、こちらも先ほど掛けたばかりで口が温まっていたから、すぐに始めた。
腕や足を個別に脱力させた先ほどとは違い、全身の力を一度に抜いてみた。菜殿も時間がない中、うまく脱力してくれたのではないだろうか。もちろん、時間がない中これ以上はできないので、すぐに引き上げて終わりにした。菜殿が起き上がると、おう、ありがと、とお礼を言ってくれた。さらに一部始終を見ていたらしい竜殿が、時間がないって言っていたからもっと適当にやるのかと思ったらちゃんと手順を踏んでて感心したと言ってくれた。自分にはあれしかないからなあ、と思いつつも、ほめられたこと自体はまんざらでもなかった。僕は少し良い気分になった。この会は幕を閉じた。